英仏の争いと地図

近代に入って台頭したフランスはその国力を地図作成にも注ぎました。ルイ14世の時代の財政を仕切ったコルベールは、優秀な天文学者であったカッシニにフランスの地形図を作成するよう依頼しました。カッシニは三角測量では誤差が積み重なってしまい、正確な地図を作成できないと見抜いていたため、独自の方法で切り抜けようとしました。他方、ライバルのイギリスも負けてはいません。イギリスは北アメリカ、南アフリカ、インドを支配して波に乗っていました。さらに領土を拡大するためには世界の隅々まで航海する必要があり、大航海時代でさえよく分かっていなかったアジアにも目を向けました。クックは艦長として活躍したことで有名ですが、測量術と天文学を学んだ知識人でもありました。ニューファンドランド島の地図作成を命じられると、単なる艦長の域を超えて四分儀、経緯儀、側鎖を使用し、三角測量までやってのけたのです。完成した地図は本国イギリスの地図と比して見劣りしないレベルに達しており、クックは後にロイヤルアカデミーの会員にもなっています。

クックは太平洋を調査する中で、島の位置を確定し、北回りの航路と未知の大陸を探すことに心血を注ぎました。実際タヒチやニュージーランド、オーストラリアを正確に測量しました。しかし「未知の大陸」に関しては業績を上げることができませんでした。ところで「南方に存在する未知の大陸」という発想は、遡ればギリシアのものでした。ギリシアの哲学者たちはコスモスという概念によって世界の対称性を信じたため、南にも北と同様の大陸があるに違いないと考えたのです。ルネサンスはギリシア・ローマの発想に対する敬意、憧憬でしたから、近代に入ってもなお「未知の大陸」という迷信は消失しませんでした。


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